序章:風の都、京都の呼吸
京都の風は、どこか記憶の底に届く。夏には木陰の涼しさを運び、秋にはどこからともなく金木犀の香りを届ける。春には、柳の芽吹きを撫で、冬には身を切るような冷たさの中に、凛とした静けさを漂わせる。そんな風が一番似合う町――それが東山であり、祇園であり、そして「杢目金(もくめがね)」の工房がある、三条から祇園四条のあたりだ。
京阪・三条駅を降りると、目の前には鴨川がゆったりと流れている。高瀬舟が行き交っていたであろう時代を思い浮かべながら、旅人はまず川辺を歩く。水の音、鳥の声、すれ違う人々の柔らかな足音――それらが混ざり合って、まるでひとつの音楽のように街を包み込んでいる。
どこか懐かしくて、それでいて新しい。京都の空気には、そういう不思議な時間の重なりがある。

第一章:三条駅と鴨川、時間がゆるむ朝
早朝の鴨川沿いを歩けば、川辺の柳がそよぎ、少し肌寒い風が頬をかすめる。遠くに見えるのは東山連峰、そのふもとにそっと寄り添うように町が広がっている。橋の上から水面を覗けば、朝陽がゆらりと波紋に溶け込み、白い雲が水面の鏡にゆらめいている。
この風景は、まるで一枚の絵のようだ。しかし、この絵は「静止画」ではない。光と風が動き、時間が染み込んでいる。ここに立つと、歩みが自然とゆっくりになる。焦る理由も、急ぐ目的もない。ただ、この風景の一部になることが、何よりも心地よい。
そして、そんな京都の空気の中で、長年ものづくりを続けている職人がいる。杢目金の作家、髙田邦雄氏。彼の工房は、鴨川から少し東へ歩いた先、祇園四条からもほど近い静かな町家の一角にある。

第二章:東山を歩く――石畳、格子戸、そして工房
鴨川を離れ、路地を東に向かえば、祇園の町並みに入り込んでいく。石畳の道は細く、軒先には格子戸が並び、白壁の家が静かに連なっている。どの家も、道行く人に背を向けるように、控えめな顔をしている。けれど、よく見ると、そこには確かな美意識が宿っている。
格子の影が石畳に落ち、風が竹垣を揺らし、暖簾がゆらりと踊る。そのすべてが、「京都」という模様を織りなしているようだ。そんな町並みの中に、髙田氏の工房がある。
軒先にはさりげなく掲げられた木札。「杢目金工房 enishi」とだけ記されている。外からはごく普通の京町家に見えるが、中に入るとそこには時間の密度が凝縮されたような空間が広がっている。

第三章:杢目金という詩、職人の手の記憶
工房の中は、静けさに満ちていた。作業台の上には銀と銅の板。ハンマー、小刀、鏨(たがね)――どれも長年使い込まれ、金属の匂いと職人の手の温もりが染み込んでいる。
髙田邦雄氏は、黙々と金属の層を打ち続ける。彼のつくる「杢目金」は、異なる金属を何層にも重ね、熱し、叩き、伸ばし、削ることで、まるで木目のような自然模様を浮かび上がらせる日本独自の技術だ。もともとは刀の装飾に用いられたその技法を、指輪という現代的なかたちに蘇らせた。
「模様は、制御できません。だからこそ、面白いんです。自然と、時間と、自分の手が作る、偶然の調和です」
そう語る髙田氏の目は、金属の表面を見つめながらも、どこか東山の山並みを眺めているかのようだった。
工房に響く金槌の音は、どこか雅楽のようにも聞こえる。規則正しく、しかしほんの少しの揺らぎを含んだ音。そのリズムは、まるで東山の風に似ていた。

第四章:巽橋の夕景と指輪の光
夕暮れが近づくと、旅人は工房を後にし、祇園の小路を歩く。白川沿いに続く石畳、柳がしなり、巽橋を照らす西日が水面にきらきらと反射している。
ふと、先ほど工房で見せてもらった指輪の模様を思い出す。柔らかな曲線が、どこかこの川の流れに似ている。色の移ろい方が、石畳の陰影にそっくりだと思う。杢目金の模様とは、単なるデザインではない。それは、この町の空気や時間、記憶までもを映す「風景」なのだ。
この巽橋の傍で、誰かと指輪を交わすという光景が浮かぶ。桜の花びらが舞い落ち、白川のせせらぎが音を立て、町の明かりがほのかに灯り始める。そんなひとときに、杢目金のリングは静かに光りながら、京都という時の重なりを語りかけてくる。

終章:模様に刻まれるもの
京都の旅は、思い出の積み重ねでできている。ひとつひとつは儚く、小さな記憶かもしれない。けれど、それが重なり、染み込み、やがて自分だけの「模様」になる。
髙田邦雄氏の杢目金は、そんな京都の旅そのものだ。異なる金属が重なりあい、偶然の模様をつくるように、旅人もまた、風景と出会い、人と触れ合い、そして心に何かを刻んでいく。
指輪を手にしたとき、その模様は言う。「これは、あの時の風景だ」と。「あの石畳の夕陽」「あの柳の揺れ」「あの金槌の音」。すべてが、この小さな円環に込められている。
京都に行きたくなる理由は、風景の美しさだけではない。そこに「自分の模様」を重ねられるからだ。誰にでも、あなただけの京都がある。そして、髙田邦雄氏の杢目金は、それを永遠に指に刻むための、静かな詩である。
著者・山本直子
